SPECIAL ISSUE

 

特集

 

三浦基

取材・文 尾上そら

 

_

遡りますが、NIPPON文学シリーズへの三浦さんの取り組みについて今一度伺えますか?

三浦 日本文学から演劇をつくることを考えた時に、『枕草子』のような古典という選択肢もあった。けれど僕が「文学」と「演劇」を並列して考える場合、意識は近代以降、現代へと向かいました。先に挙げた古典文学の時代、中世以前にも日本には能・狂言などがありますが、あれは「芝居」と称されることもあるように、演劇とはまた違ったものに僕には思える。現在「演劇」と呼ばれているものは近代以降のもの、それらを伝統芸能とは分けて考えたいという思いが僕には以前からありました。そうした場合、僕がKAATのシリーズの対象となり得ると思う日本の文学者は夏目漱石、芥川龍之介、詩人も含めるなら中原中也や萩原朔太郎らだったんです。
演劇の歴史を遡ると築地小劇場のように、近代演劇を海外から輸入し、それを現代演劇であるとする流れがある。フランスに留学し、帰国後は世界的な名作を書いていく岸田國士のような作家も出ては来るけれど、それに匹敵する近代についての意識がある劇作家となると、非常に数が少なくなる。文学であれ小説であれ評論であれ、すこし本棚を広げないと、近代と近代以降から繋がる現代というものを捉えにくくなると直感的に思ったんです。そんな、シリーズの求めるものと僕自身の思考や志向を共に満たせると判断して取り組んだのが、第一弾の芥川龍之介でした。

 

三浦基

 

三浦基

前回公演 『Kappa/或小説』 2011.  photo: Takehiko Hashimoto 

_

芥川の「文学」から「演劇」を生み出した手応えはいかがでしたか?

三浦 小説を演劇に転化し、その言葉を俳優に課するのは非常に楽しい作業でしたが、そうはいっても直接的に劇作の文体にするわけにもいかない難しさもあって。そのため、妻である芥川文さんに宛てた手紙をラストシーンに持ってきたりもした。芥川を多角的に描くためにも、芥川の書いたものだけにこだわるつもりはなかったけれど、葉書や手紙などを結果的に多用した気がします。内容が興味深いという以上に、手紙の文体は喋ることを前提に書かれたものだから「演劇」に使いやすかったのです。小説は当然、喋ることを前提にしていません。言うなれば小説と演劇、両者の距離感を描くことを手法的に行なったのが前回の『Kappa/或小説』です。震災のためKAATでは一回しか上演できず、やりきれなかったことも多いのですが。

 

 

_

太宰治を選んだのは、それら前回の創作過程と結果を踏まえてのことですか。

三浦 そうですね。太宰治には色んなタイプの小説や評論があるけれど、一様に言えることは「喋っている感じ」がある、その「文体」なんです。僕も東北育ちなのでよく分かりますが、彼は大地主の家で乳母や使用人に育てられている。東北の人たちの間では「語り」の文化が発達していて、囲炉裏を囲んで老人たちがああでもないこうでもないと、面白おかしい話を子供らに語って聞かせる。太宰も当然その影響を受けており、それら囲炉裏話が彼の文学性の根幹を成していると思うんです。『駈込み訴え』などに代表される「申し上げます」という文体、或いは「生まれてすみません」という語りかける口調。太宰の文体には対象が確実に存在する。小説でありながら極めて演劇的な文体なんです。それを敢えて演劇でやってみたら面白いんじゃないか、と。
それとは別に以前、太宰の『お伽草紙』を『Kappa/或小説』の台本を書いてもらったこふく劇場の永山智行さんに戯曲化してもらい、名古屋の児童劇団うりんこで演出した経験もありまして。それが非常に上手くいったので、太宰を集中してやってみてはどうかという発想もありました。
さらに本音を言えば、実は僕は中学や高校時代にほぼ太宰しか読まなかったと言えるほどの熱狂的な信奉者でした。なので、実はどこかで太宰を封印していたところもある。今回のことは遂にというか満を持してというか、それほど僕にとって太宰は重要な作家の一人なのです。

 

三浦基

 

_

三浦さんにとって、作家・太宰の魅力とは?

三浦 ずば抜けて筆力が高いところです。戦中戦後、特に戦中は検閲があったので『お伽草紙』『右大臣実朝』など歴史的な、当たり障りのない題材で書いてますが、僕はそこも評価している。そういった作品でも太宰は職人作家として、あるクオリティを常に保っているから。戦後になってからもスタイルはぶれず、一貫した技術、先程言ったような「語り」の技術によって質の高い作品を書き続けた。
太宰治というと、どうしても『人間失格』や心中のエピソードで、極めて破天荒な人間という印象を与えていますが、僕の評価は「真の職人作家」です。しかも自分でも「道化」と言っているように、エンターテインメントな小説を書く。教科書に載る『走れメロス』からユーモア溢れる短編まで、「これが同じ作者なのか?」と思うほど上手く、職人的に作家業をまっとうした作家。僕は非常に尊敬しています。珍しいですからね、僕がチェーホフ以外の作家を褒めるのは(笑)。その太宰と演劇を介して向き合えるのは、本当にありがたいチャンスだと思っています。さらなる広がりも感じている企画ですね。

_

具体的には、どのような構成を考えていらっしゃるのでしょうか?

三浦 タイトルにもなっている『トカトントン』という短編をベースに、『斜陽』からの抜粋を組み合わせてつくります。題材を絞り込んだため今回は台本作家を立てずに大枠の構成を決め、あとは稽古をしながらつくっていく、いつものやり方で進めます。
二篇とも、日本が戦争に惨敗したところから始まる物語です。太宰や坂口安吾など無頼派の作家は、日本の多くの庶民と同じように「負けても戦争が終わって良かった」と公然と喜ぶ。安吾をその後「堕ちるところまで堕ちよ」と足元を見つめ続けようとする現実主義者とすれば、太宰は本気で喜んだその後に「だけれど……」と彼特有のニヒリズムが続く。読者に「どうしたらいいんでしょう?」と語りかけながら。読者はその語りによって、日本が戦争に負けたことを繰り返し確認せざるを得ない。
『トカトントン』はまさにその好例で、玉音放送を聞いた直後に耳に入った“トカトントン”という金づちの音がつきまとい、それを聞くたびに無気力・無関心に襲われる若者の話です。
一方の『斜陽』は「恋の革命を行う」という女性がヒロインで、チェーホフの『桜の園』をモチーフにした「女性の解放」と「近代からの脱却」を描くロマンチシズム溢れる作品。これを『トカトントン』と綱引きさせることで、芸術至上主義VS生活至上主義のような二元論に陥らぬ知性ある作品にし、また巷に多い作家の評伝的な作品になることも避けられる。
最終的にはこの作品で、戦後の焼け野原を起点に政治から芸術、民衆の意識まで含めた日本というものの、近代から現代への移行部分での憂いを描けたら成功だと思っています。

_

震災からほぼ1年ぶりにKAATで公演を行うことに、特別な感慨はありますか?

三浦 感慨というより、2011年3月11日を共に過ごしたこのシリーズとKAATという劇場が、僕にとっては創作に向き合う姿勢を確認させてくれた、特別なホームグラウンドになったのは紛れもない事実です。作品を上演する際、「上演するか否か、表現上自粛すべき点はあるのか?」などと自分の意志確認を行う機会はそうはありませんから。

_

その時の意志確認の結果、三浦さんの創作に関わる姿勢や視点に変化はあったのでしょうか。

三浦 もしかしたら自分で気づいていない部分ではあるかも知れませんが、自覚的な変化は今のところありません。震災後に露わになった日本という国の構造的な歪み、政治やマスメディアの在り方には非常に驚き、また不満も持っていますが、それを直接的に表現に転化することはないと思います。僕は芸術は芸術として特化すべきものであり、アクチュアリティ(現実性)を持ちすぎるべきでないと考えています。芸術や表現を観た人間が個々に現実に引きつけることは構わないけれど、芸術はむしろ現実から距離を取り、かけ離れているべきだ。そんな思いを以前より強く持つようになりました。もっとも僕は以前から、芸術や演劇が、そんなに簡単に観客と繋がるものではないと思ってはいたのですが。

 

『あたしちゃん、行く先を言って—太田省吾全テクストより—』2009-2010.  photo: Tsukasa Aoki

_

今伺ったような客観性と距離感、対象との距離の取り方は三浦さんと「地点」の創作の特徴のように思えます。

三浦 だからといって僕が、自分の信念を強く持ち、周りのことなど気にしないかと言えばそれは少し違う。演劇というのは面白い芸術で、作品を完成させるためには観客の存在が不可欠なのです。これほど現実と向き合わねばならない芸術も少ないでしょう。拍手の強弱で観客の満足度は手に取るように伝わって来るし、その反応に僕は無関心ではいられない。これは間違いなく本音です。
だからこそ僕は今回の作品を、僕の考えるエンターテインメントにしたいと思っています。この場合のエンターテインメントとは、「こうすれば暇せずに楽しいでしょ?」という意図の見えるものではありません。観客は必ずその意図を見抜き、馬鹿にするとともに作品に対する思考を停止する。そこに生まれる虚ろな快さなど僕はエンターテインメントとは呼びません。むしろ、そんな観客へのおもねりを徹底的に排除した創作がめざすべきところ。
僕はエンターテインメントとは「優しさ」であり、作品を通して「こういうことではないだろうか?」と観客に語りかけていく能力の表れだと思うのです。その語りかける速度が速ければ「前衛」と呼ばれ、ゆっくりであれば「親切な作品」と言われる。つまりどんなものでも、ロングランをすれば全てエンターテインメントになる可能性を持っている。回を重ねることで演出家や実演者は作品に最適の速度を見出し、よりよく語りかけることができるようになるわけですから。
今回、公演期間じたいは決して長くありませんがシリーズとしての継続性や、太宰治という題材に対しての僕の中での蓄積があり、それらはエンターテインメントを創るための有効な足がかりになるはず。それらを存分に活かし、ホームであるKAATで伸び伸びと、自分のめざす創作を貫徹したいと思っています。

 

 

『Kappa/或小説』上演記録

演出:三浦基  戯曲:永山智行  原作:芥川龍之介

2011年3月11日(金)~21日(月・祝) KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ 

※地震の影響により13日(日)のみ上演

2011年3月26日(土)~27日(日) びわ湖ホール中ホール

 

 

▲ページトップへ戻る