NIPPON文学シリーズ

 

 

Story

 

作品概要

 

地点の音楽的な発語と独自の作劇、音楽家・三輪眞弘による生身の「音声装置」、建築家・木津潤平の舞台空間
——音・声と身体が拮抗する圧倒的強度をもった空間が立ち上がります。関西で初めての上演、どうぞお見逃しなく!


オーストリアのノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクは、ポストドラマ演劇の最前衛として欧州で頻繁に上演される劇作家。『光のない。』は東日本大震災とそれに続く福島の原発事故をモチーフに書かれました。登場人物も物語もはっきりしない難解さを持ちながら、生者と死者の境界、テクノロジーに翻弄される人間存在、日本人が共有した震災直後の混乱――といった強いイメージを一語一語から想起させる力強いテキストです。イェリネクの書いた言葉の豊かさが、地点が長年培った音楽的/即物的な発語方法によって一挙に観客を捕え、そのスケールと相まって圧倒的な印象を残しました。音楽監督・三輪眞弘との共同作業により、これまでの地点の音楽性はより一層輝きを放ち、初演の際は音楽分野からも「まるで現代オペラのよう」と高く評価されています。

イェリネク作、三浦基演出の「光のない。」。現代演劇の頂点。
悲惨で混乱し美しく隣接し切断される言葉と身振りとセットと照明。
大震災と原発事故を目の前にして書かれたセリフの切実さ。
ラスト近く不意に涙が出た。
明日もある。飛行機で、新幹線で、地下鉄で、駆けつけるべき。

いとうせいこう

[2012年11月17日19:10]twitter: @seikoito


作品について

 

「第一バイオリン(A)」と「第二バイオリン(B)」の対話からなる戯曲『光のない。』。しかしながら、彼らが生きているのか死んでいるのか、彼らが津波にのみこまれたのか、閉鎖された原子力発電所の内部に取り残されたのか、戯曲にはなにも具体的なことは記されていない。この舞台において共有されているのは、東日本大震災があり、それにつづく原発事故があったということ。「わたし/わたしたち」は誰なのかということを問い続け、言葉の断片的なイメージをつなぐことで舞台は進行する。


作者について

 

photo: Hilde Zemann

エルフリーデ・イェリネク|Elfriede Jelinek

詩人、小説家、劇作家。1946年オーストリア生まれ。ビューヒナー賞をはじめ数々の賞を受賞。小説『ピアニスト』(1983)は2001年にミヒャエル・ハネケによって映画化され、同年カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。2004年、「豊かな音楽性を持つ多声的な表現で描いた小説や戯曲により社会の陳腐さや抑圧が生む不条理を暴いた」功績により、ノーベル文学賞を受賞。2011年12月、自身のウェブサイトに『光のない。』を発表。


劇評

 

(ポストドラマ演劇の)難解さが気鋭の演出家から想定外の創意を引きだすのだから、演劇は面白い。地点の三浦基が演出し、三輪眞弘が音楽監督をつとめた東京芸術劇場プレイハウスの舞台は日本語の母音を共鳴させるヴォイス・パフォーマンスを突きつめ、異様で、ひりつくような感覚を観客に刷りこむ意外な試みだった。テキストを再構成し、その力を意味ではなく音に還元していく上演は「わたし」と「あなた」の境界を溶解させ、観客に当事者性の認識を迫る。安部聡子の次第に熱を帯びる音楽的発声が素晴らしい。遺体ともみえる役者のシルエットや足首だけを見せる一種のインスタレーションがかもしだす不気味さ、四角形の光の窓から放射状に広がる世界の終末的な風景、それらが消えがたい印象を残したことは確かだ。
内田洋一(シアターアーツ 2012冬 53号)



乱反射するイメージが流動化する「わたしたち」/「あなたたち」のあいだに入り込み、さらに三輪の音楽がその流動状態を加速させる。三輪自身が各所で述べているように、音楽(芸術)とは決して生者のためだけのものでなく、死者や未だ見ぬものたちへと捧げられる。すなわち、イェリネクー三浦ー三輪による『光のない。』は、鞣(なめ)された「わたしたち」/「あなたたち」という存在の肌理(きめ)を逆撫でして、対立項が都合良く造り出されていることや、「わたしたち」/「あなたたち」という尺度の変換を照らし出す。それは、ひょっとしたら震災以前/以後というレトリックに重ね合わせるようにして乱立する区分自体への批判となるような峻厳なメタ的作品であり、震災前/後という割り振りで物事を押し進めようとする議論への反省的思考ですらあるかもしれない。
『光のない。』は、震災や原発問題を性急に追い越し、完了した出来事へと捧げられるレクイエムとしてあるのでは決してない。それは単にポスト3・11という過去形にした状態で、安易な人道主義の装いをまとって示されるものではないのだ。追い越し、進むのではなく、その場にあえて滞留し、声をもたない存在を自らのうちに呼び込んで、語らせること。異質な存在を内に呼び寄せ「わたしたち」自身を変容させてみること。陣営的な二元論的思考や問いを生み出す土壌を再度開墾(カルティヴェイト)してみること。イェリネクー三浦ー三輪の三者が変奏し合う『光のない。』は、“わたしたち”の存在や存在様態そのものに関与しているのである。
太田純貴(アルテス Vol.4 2013年3月12日発行)


演出ノート

 

身体性について気がついたこと

身体とは環境における体のことであり、環境とは物語といっていい。ナイフを突きつけられれば、体は凍る。ナイフを取り出すには、事件が必要である。事件を説明するのに物語が生まれる。だから物語がなければ体は凍らない。
凍らない体の蔓延は、舞台において許されないから、劇は常に事件を必要とした。事件をどう運ぶのかということに熱中した。私は今、ギリシャ悲劇まで遡っている。そこではナイフなんてせこい小道具ではなく、戦争が環境となる。しかし、ギリシャ悲劇が劇の原初だとして、では今、ギリシャ悲劇をそのままやったところで、我々の身体にはそぐわないだろう。神と戦争に頼るのはごめんだ。そこで身体は困るのである。 物語を捨てる。それは身体を捨てることである。ナイフは取り出さない。いや、取り出せない。これがポストドラマ演劇と呼ばれる現代演劇の闇である。物語を期待している観客は、悪い事は言わない、今すぐ席を立つか、あきらめて寝てもらうしかない。私は本気で言っている。なぜならば、それが歴史だからだ。私のせいじゃない。いや、私のせいかもしれない。せっかく物語があってもそれをわざわざ壊すのだから。しかし、今回はその心配はない。イェリネクである。ナイフもピストルも登場しない。イェリネク作品が難解なのは、物語がわからないからである。この作家は物語を捨てている。では何を書いているのか。

政治性について気がついたこと

政治と政治性は違う。政治は具体的な行動を伴う活動のことである。今、問題にしているのは政治性という普段からちりちりとくすぶっているよくわからない人間の性(さが)についてである。人はひとりでは生きてゆけない、などと大見得を切ってみようか。ひとりでも生きてゆけると錯覚させる現代の闇は、政治性を堕落させる。ヒューマニティという言葉は死語なのか? 人と社会の関係性が希薄になれば政治は廃れる。だから演劇がしつこく政治性を持たないといけない。これ、私にしてはめずらしい政治的発言。
政治性とは関係性と言ってもよい。劇は関係性によって成り立つ。誰との? ロミオとジュリエットとのではない。イェリネクは、わたしとあなたとのでもないと言っている。わたしはあなたであり、わたしたちでありあなたたちだと一見、ふざけたことを言っている。イェリネク作品での主語に「わたしたち」が頻出するのは、政治性を問うた結果である。つまりイェリネクが書くのは、物語ではなくわたしたちに起こった「出来事」についてなのだ。残念ながら、震災があった。それに伴う原発事故があった。

アクチュアリティについて気がついたこと

社会事変に便乗することの危険は、表現に関わる立場の者ならば誰もが警戒していると信じている。マスメディアは報道という立場でより早く、より正確な情報を伝えることを使命とする。しかし、芸術はそういう迅速さや正確さには価値を置かない。だから、震災に関することをこんな早い時期に扱うことは危険だと思っている。これだけは言っておくべきだと思うのだけど、私は原発に反対か賛成かをみなさんの前で言うつもりはない。中学生の時に反原発の漫画を読んで、反対だと思った。でも、その漫画の表現自体にあまり興味を持たなかったので忘れてしまっていた。あなたはこのわたしの忘却を責めますか? 私が反原発の政治活動をやらなかったことを責められまい。原発の是非については、デモに参加したり投票で意思表示するからほっておいて欲しい。これが社会人としての普通の感覚だと私は思っている。だからこの劇が、みなさんに反原発を訴えるはずはないし、そんなつもりは毛頭ない。これ、私にしてはかなり踏み込んだ個人的発言。
リアリティという言葉は、いつの間にかアクチュアリティにすり替わってしまった。私のリアリティがみんなのリアリティなんてかわいい感覚ではもう駄目で、もっと大きな文脈を背負うべきという強制的な響きをもって私には聞こえる。「君にはアクチュアリティがないなぁ」って言われたらちょっと困る。「君にはリアリティがないなぁ」と言われたら、相手を睨むことができるだろう。つまり対話が始まる。が、どうもそんな対話は古いので人々は敬遠する。誰だかわからない立場で、アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術を持った。私は、だからアクチュアリティと闘うつもりだ。口が裂けてもこの言葉を簡単には使わないようにしたいと思う。
ところで、『光のない。』は、東日本大震災と福島の原発事故がテーマになっているアクチュアリティ満載の作品です。嘘です。イェリネクがこうしたテーマを選んだことがアクチュアリティなのではなく、この出来事に彼女が「わたしたち」の一員だと宣言したことが、アクチュアルなのである。この作家には驚く。私は重い腰をあげた。

木を見て森を見ず

もう一度、身体性について考えなければならない。イェリネクは、自分の戯曲は演劇のテキストではあるが上演のためのテキストではないと言う。つまり書いてある通りに演出しなくてもよいという意味だ。あるいは、書いてある通りにやっても上演は難しい、ということだ。繰り返しになるが、物語による劇の推進を前提とした場合にイェリネク戯曲は難解なのであって、我々はそこから自由でなければいけない。
しかし、それが歴史の必然だとしても私にとって不自由な点がひとつある。いや、むしろ不自由であるべき事柄として、やはり身体のことだろう。身体をないがしろにはできない。だってそこに俳優がいるんだから。私はこれだけは手放さない。そのために三輪氏の音楽が活躍するだろう。そのために観客という立場にも踏み込むだろう。今、あせって森を見てはいけない。だってそんな全体のことなんか誰もわかってないんだから。誘(いざな)ってくれる物語もないんだから。今できることは、「森を見ずに木を見て」なのだと思う。イェリネクの木々はどこを切っても血が吹き出すのだから。

最後に、どうかこの劇を席を立たずに、そして寝ることもなくお楽しみいただければやっぱり幸いです。

三浦基(初演当日パンフレットより)

 

 

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